独りで食べても充分美味しい
図書館に出かけようとしているところ、主人が急に戻ってきた。
何も言わずにドリッパーにフィルターをセットし挽いた豆をはかりもせずにザラザラと投げ入れてお湯を注ぐ。その音を遠くで聞きながら私はネックレスの留め具をかけていた。
テーブルの上にトンと置かれたカップ。
いつの間にか私の分も入っている。
あら、珍しい、私も頂いていいの?と尋ねると、他に誰が?との返事。
本当はすぐにでも出掛ける予定だったのだけれど、せっかく淹れて頂いたので私も斜め前の椅子をひいて腰掛ける。
私の顔をじーっと主人が眺める。
なあに?そう言いながら珈琲を頂く。
適当に豆を入れたにしては加減のいい味で、あぁ美味しい、の言葉が口をつく。
「俺、お前のきちっと化粧した顔、好きだ」
と唐突に言う。
あらそう、ありがとう、と返したあと、ハタと気づき
「ねぇ、普通は化粧してない顔も綺麗だよ、じゃないの?」
と尋ねると吹き出した。
「化粧してない顔は見飽きてる…っていうと、彼に失礼か。彼はお前の化粧してない顔なんか見た事ないだろうしな」
回数は少ないけれど、彼は私の素顔を知っている。確かに、見飽きた、なんて言われる程ではないけれど。
「で?なによ、どうしたの?何で戻ってきたの?仕事の話?私今から図書館に用があるの。頂いたら、出かけるから」
その言葉には答えなかった。
「用事なんかないよ、一緒に珈琲飲みたかっただけ。顔見に戻ったなんて言うと、お前怒んだろ?」
主人は今まで、そんな事をしたことがなかった。自分が戻ったら気を利かせて、あらお戻りになったのねなんて言いながら妻が珈琲をいれてくれる、この人は自分の理想の上でしか生きてこなかった人だ。
怒りはしないけど毒でも入ってんじゃないかと心配になるわよね、と肩をすくめて見せた。
「お前ひとりに色々と預けて行くのは気が引けるけど、今日は遠方に用事があるから、もうすぐ出るけど。」
出るけど?なに?
「で、彼との昨日のデートはどうだった?化粧ノリもやたらと良さそうだけど」
私はシラッとした態度で答える。
「そうね、最高だったわ。あの人、夢見せてくれるし、優しいから」
そんな返答をする間、私の目を見つめたまんまだった。
珈琲も飲み終えて、私は席を立ち、そのまま図書館に行く為の荷物を車に積んで乗り込んだ。
図書館での用事も済ませて、買い物をしながら彼に電話した。
昨日の飲み残したワインは呑んだのかとか
教えて貰った本のどの部分で泣いたとか
そんなたわいもない話をしながら、私は夕飯の食材を買い物カゴに投げ込む。
あぁ、そういえば、今日の分が足りないからワインも買っておかないと…
そう呟いたら彼は
『また呑むの。そんなに強くないのに』
と笑った。
そんなに強くもないのに呑むんだから可愛いでしょう?
なんてヘラヘラと甘えてみる。
うん、だね、なんてとても嬉しそうな返事をした。
私がそんなに強くもないと知ってる人。
小さな事だけれど、私の事を知ってる人。
どうでも良さそうな事を見逃さずにいる人。
でもいつも、話終わりの間際には、このまんまでは居られないよね、そういう話になる。
家に戻って、子供たちにはカブとチキンのソテーを拵えてやった。
彼女たちが食べ終えたのを確認してから、ワイングラスに一杯分を注ぎ、少し深さのある白い食器にベビーリーフとサラダ用の茎が紫色をした水菜を切って盛り付ける。
テーブルの上には、テーブルサイズのフライヤーを置き、かぼちゃや白ネギ、ししとうやエンドウなどを溶いた粉に放り込む。
フライヤーの油が温まったら、次々と中へ泳がせる。ハチハチハチハチ、小気味好い音が響く。
カラリとあがった順に、何も味つけしていないサラダ用の野菜の上に置いていく。油を切る為に天ぷら紙を敷かずとも、生の野菜と落ちた油が絡むのでいつもその様にしている。
かぼちゃは栗かぼちゃと呼ばれるだけあって、揚げると中がほくほくモチモチしていて粘りのある甘さがあり、白ネギはネギの鋭利な香りなど捨て去り、噛み締めると透明感のある甘い水分が舌先にのってとても美味しい。
ハフハフしながら、ワインで流す。
あぁ、美味しい。
片手に文庫本を持ちながら一定のペースを保ちつつ、揚げる、食べる、呑む、を繰り返す。
ご飯は大勢で食べた方が美味しいという。
私は疲れたのだ。
誰にも気を使わずに、自由に好きなものを食べられるこの時間、独りでも充分美味しい。
私には好きな人がいて、その話を数日前に知った主人は何日も嫌みったらしく文句を言ったけれど、その話の時に私は言った。
仕事が忙しかったとか、なんだとか、10年も全く振り返らずに、待たされる身にもなってみて。蔑ろにされる身にもなってみて。
何かに夢中だから、もう片方が疎かになった、何かに夢中だって事は、対象が仕事であろうが趣味であろうが人であろうが、恋をしてるには違いないわ、その間、一切、こちらを振り向こうとも見ようともしなかった。
こっちを向いて、何度もそう話しかけたけど、とっても面倒くさそうで、足手纏いみたいに一瞥しただけで私からして見れば、もう私は諦めて新しい人生を歩み始めたのに兵隊に出た人間が舞い戻ってきて、裏切り者だ、俺は国(家族)の為にやってきたのに!
そう言ってるのと変わらないわよ、私は私で、生きてたんだから
そう説明した。
顔を見るたびに嫌味ばかりを言うので
取り返したいんなら少しは惚れさせる努力をすればいい、何でもあわせて貰える時代は終わったのよ、私はよそに恋をしてるから
冷たくそう言い放った。
私が妻としての務めを果たさずに勝手によその男を好きになった、となれば話は別だが、求められれば与え、あちらの要求には自分を殺してでも従い、する事はしてきたのにも関わらず、私を妻として扱わなかったのは主人の方である。
いつも蔑ろにされて、あまりに自分勝手が行き過ぎるともう少し考えて欲しかった、と意見して、その意見に対しても、仕方がないだろ、とか、挙げ句、誰に食わして貰ってんだ等と言い放ち、散々好きな事をしてきた人だ。
気づいたら、自分の事も何も話さなくなり、話せなくなり、自分は何のためにここにいるのか、を、問いただす日々になり、最後にはそれさえ考える事も辞めてしまった。
私の好きな人は私を愛してくれる。
でも彼にも持ち物がある。私を失いたくないと言いながら、それを手放す事はないだろう。その事には薄々、感づいている。
彼の方は彼の方で先にその手を放したのは奥様の方であり、するならよそでと諭された事情もあるので、異例の
お互いの家庭がお互いの存在を知っている
という形になるのだが、もしそれらを彼が手放す事になるにしても、それは随分のちの決断となる事だろう。世間一般的にはそれは"狡さ"であるかもしれないが、どうするかは私の決めるところではないので、それならそれで良いと思っている。
愛しているからこそだ。
どうしても、好きな人には、甘い。
好きな人がそうするというのなら、私は頷くだろう。
彼がいようといまいと、私は長く結婚生活において終止符を打つべきかどうかを考えてきたので、先日の話し合いの際、
離婚なら離婚で良いと考えている
と主人に申し出た。主人の方はそいつと一緒になるのか、や、男としてのプライドばかりで、私が一言、その気持ちの中に私は出てきますか?と尋ねたところ、今度は打って変わって
さみしい思いをさせていた事は自分でも解っていた、や、自分の行いがどれ程酷かったかを私に報告する結果となった。
そこで一言、あなたは仕事仕事と仕事のせいになさいますが、手を出していないだけで好きな人はいらっしゃったでしょう?
と蜂の一刺し。みるみる表情が変わった。
その頃の反省を今報告されましても困ります、
そんな気分で一杯だったが他人に取られるとなると手放すには惜しく、そうなってみて初めて妻という存在の意味を知った事になった様だ。
しかし、だからと言って、その男と別れろ、解りました、とはいかない。私の気持ちはもうとっくに動いてしまっているのである。
誰にも奪われたくないと、手放すのは辛いという主人からの提案は半年間自分は頑張るのでその頑張りをみて、愛だと認識してくれないか、との事だった。
そもそもそいつと一緒にならないのに別れる意味あるのか?と言う問いには、根本が理解されていない、と感じたけれど、主人と彼が話した時、彼は
"今すぐにとはいきませんが、将来的には一緒になりたいと考えています"
と話し、主人は激怒した。
隣で聞きながら、激怒する意味がわからない、と思っていたのも確かだ。ならば初めからそれに気づいて大切にしておくべきだった。
出来ていないからそれに疲れたのだ。
横柄でも愛してくれる等、そんな物は誰にとっても幻想だ。私はつれない息子の母ではない。またあの子は、等と笑う位置には端からいないのである。
心変わりを許せぬのなら自分の愚行を反省してからにしてくれ、他人に当たり散らすな。
じゃあもし…
私が今後10年、全くあなたを見向きもせずに11年目にして急に
心を入れ換えて家族の為に生きて行きます!
と宣言したらあなたどうするの?
おせぇわ!って言わない?
そんなに言うなら21年目からやり直しましょう、それまでは好きにさせて。
辛抱強さが足りないわよね?
私に比べて。
怒るのは勝手だけど、他人の痛みも理解してからにして。
こういったやりとりを他人に話すと
『もっとうまいやり方があるでしょうよ』
と笑われた。
『なんにも言わない、バレずにやってのける、だれも傷つけない、その上で、自分が笑ってられるのは外に支えがあるからなの、そう思ってやってけばいいじゃない。
なんでそんな事を言っちゃうかなぁ~』
ああ、そんな物なのか、と、思った。
バレなければいい、と言う事は大抵において悪い事で、言えない事はすべき事ではない、というのが私のやり方で、馬鹿正直と言われようがこればかりは変えようが無い。
だれも傷つけないやり方で、なんて、傷付いて来たから踏み出すんでしょうよ、動くんでしょうよ、矛盾してない?
私は傷ついた。傷ついてきた。それなのに、相手の幸せばかりにあわせろとでも言うのであろうか。
それに。
そんなやり方は誰に対しても失礼である。
欺くのが世のやり方ならば、余計に、欺かないで良い方法を選びたいものである。
絶対に取戻すからその間はそいつと会っていても仕方がない、と躍起になっている人と、手放せない癖に失いたくないという人と。
前者は常に目を光らせ、少しの買い物でも5分ごとに電話を入れてくるのだし、後者は私が彼の気持を優先させようと気持をひくとひどく凹む。
丁度良い、が、見当たらなくなってしまった。
フツフツ、ハチハチ、たまに傷を入れ忘れたししとうが爆ぜる。バチン。
今日は静かだ。
独り本を読みながら、その音だけを聞いている。
削った岩塩をパラパラとかけ、シャクシャクと噛み砕く。私が欲しかったのは、自由と、ここに寄り添う愛だ。
全部を横に置いて秋の夜長に独り、天ぷらを揚げながら食べている、こういう自由な時間だ。
もうなんか、どっちでもいいな、と思う。
独りで食べても充分美味しいし、幸せなんだから。